Masukほうじ茶の入ったカップは、手の中でゆっくり温かかった。
工房の隅に置かれた丸いテーブル。
少しずつ形の違う椅子。
窓から入る午後の光。
棚に並んだ器。
書店の展示室とは違う静けさが、ここにはあった。
白い壁に写真が並んでいた書店では、見る側として少し背筋が伸びていた気がする。けれど工房では、器も写真も、もっと生活に近い場所にある。お茶を飲む手元に器があり、少し離れた棚にも器があり、奥にはこれから器になるものがある。
私はカップを両手で包みながら、息をついた。
「このカップ、持ちやすいです」
「よかったです。少し厚めにしているので、熱いお茶でも持ちやすいんです」
作家さんはそう言って、自分のカップを軽く持ち上げた。
「薄いものもきれいなんですけど、毎日使うなら、少し安心できる厚さがある方が好きな方も多くて」
「分かる気がします」
私はカップの縁に指を添えた。
きれいで
ほうじ茶の入ったカップは、手の中でゆっくり温かかった。 工房の隅に置かれた丸いテーブル。 少しずつ形の違う椅子。 窓から入る午後の光。 棚に並んだ器。 書店の展示室とは違う静けさが、ここにはあった。 白い壁に写真が並んでいた書店では、見る側として少し背筋が伸びていた気がする。けれど工房では、器も写真も、もっと生活に近い場所にある。お茶を飲む手元に器があり、少し離れた棚にも器があり、奥にはこれから器になるものがある。 私はカップを両手で包みながら、息をついた。「このカップ、持ちやすいです」「よかったです。少し厚めにしているので、熱いお茶でも持ちやすいんです」 作家さんはそう言って、自分のカップを軽く持ち上げた。「薄いものもきれいなんですけど、毎日使うなら、少し安心できる厚さがある方が好きな方も多くて」「分かる気がします」 私はカップの縁に指を添えた。 きれいで繊細なものにも憧れる。 でも、毎日使うなら、少し雑に扱っても怖くないものがいい。 朝の忙しい時間に手に取って、夜に洗って、眠いまま食器棚へ戻す。そういう繰り返しの中で使うものには、美しさだけではない安心感が必要なのだと思った。「藤崎さんの深皿も、けっこう使ってくださっているんですよね」 作家さんに聞かれて、私は少し笑った。「はい。ヨーグルトと、トマトと、かぼちゃと、茄子の味噌炒めを入れました」「茄子、例の」「例の茄子になってる」 思わず言うと、作家さんが楽しそうに笑った。「すみません。あの話、好きで」「少し焦げただけなんですけど」「焦げた話って、使っている感じがしていいんです。飾るためじゃなくて、本当に食べているんだなって分かるので」 その言葉に、私はカップの中のお茶を見つめた。 飾るためじゃなくて、本当に食べている。 それは、今の私の生活そのものかもしれない。
包まれた小鉢は、バッグの中でとても静かだった。 薄紙に包まれて、緩衝材に守られて、財布やノートの隣に収まっている。重いわけではないのに、バッグを肩にかけ直すたび、そこに何かがあることはちゃんと分かった。 今日、私が選んだもの。 まだ部屋には着いていないけれど、もう少しだけ私の生活に入り始めているもの。 その重みが、なんだか嬉しかった。 工房の中では、他のお客さんが器を手に取り、作家さんはその人と話しながら時々笑っていた。棚にはまだたくさんの器が並び、窓際の写真には午後の光が少しずつ傾いている。 私はその景色をもう一度ゆっくり見た。 知らない駅で降りたことも、扉の前で少し緊張したことも、小鉢を手に取って迷った時間も、全部ここへ来たからできたことだった。 来てよかった。 何度思っても、その言葉が自然に浮かんだ。「帰りは駅まで大丈夫そうですか」 朝倉さんに声をかけられ、私は振り向いた。「はい。来る時に道は分かったので」「この辺、少し似たような道が多いですから」「それは少し思いました。住宅街に入った時、急に不安になりました」「看板、小さかったですよね」「でも、見つけた時はかなり安心しました」 そう言うと、朝倉さんは少し笑った。「初めての場所の看板って、頼もしいですよね」「はい。あの看板が見えた時、少し自分を褒めました」「それは褒めていいと思います」「大げさじゃないですか」「知らない場所まで一人で来るのは、けっこう大きいことだと思います」 朝倉さんの声は、いつものように落ち着いていた。軽く流すのではなく、私がここまで来たことを、そのまま受け止めてくれているようだった。 私は少しだけ視線を落とす。「前なら、たぶん来なかったと思います」「そうなんですか」「気になるとは思っても、一人で行くほどじゃないとか、詳しくないからとか、何も買わなかったら悪いと
中央のテーブルに戻ると、淡い緑がかった小鉢はさっきと同じ場所にあった。 当たり前なのに、少しだけほっとする。 誰かが先に手に取って、そのまま選んでしまったら、それはそれで仕方ない。 ここに並んでいる器は、私のためだけに置かれているわけではない。 でも、まだそこにあることが少し嬉しかった。 私はもう一度、その小鉢を手に取った。 さっきよりも手が慣れている。 重さも、縁の揺れ方も、指に触れるざらりとした感触も、少し分かる。 青みのある深皿とは違う。 でも、どこか似ている。 主張しすぎない色。 光の当たり方で少し表情が変わるところ。 何を入れるかを急かさないところ。 私は小鉢の中を覗き込んだ。 ひじき。 おひたし。 冷奴。 果物。 それから、煮豆もいいかもしれない。 小さなものを少しだけ入れる器。 食卓の真ん中に置くのではなく、端にそっとある器。 でも、その器があるだけで、食卓が少し整って見える。 そういうものが、今の私の生活にあってもいい気がした。 作家さんが、少し離れたところから声をかけてくれた。「気になりますか」「はい。何を入れるか、いろいろ考えていました」「それはもう、かなり気になっていますね」 作家さんが笑う。 私もつられて笑った。「前に買った深皿より小さいので、使うかなって少し迷っていて」「小さい器って、意外と出番がありますよ。少しだけ何かを入れたい時に、便利なんです」「少しだけ」「はい。おひたしでも、果物でも、残ったおかずでも。主役じゃなくても、食卓にあると落ち着くことがあります」 その言葉を聞いて、私は手の中の小鉢を見た。 確かに、この器は食卓の真ん中に置くものではないのかもしれない。 端にそっと置
朝倉さんは、手に持っていた紙の束を近くの棚に置いた。「すみません。少し奥の準備を手伝っていました」「作業中でしたか」「いえ、ほとんど終わったところです」 そう言ってから、朝倉さんは工房の中を軽く見回した。「どうですか、ここ」 その問いに、私はすぐには答えなかった。 白い壁。 木の床。 棚に並ぶ器。 奥の作業場。 土の匂い。 窓から入る光。 書店とは違う。 でも、書店の展示と確かにつながっている。「来てよかったです」 私は言った。「まだ全部見たわけじゃないんですけど、器が展示室にあった時より近く見えます」「近く」「はい。飾られているものというより、ここから誰かの家に行くものなんだなって感じがします」 朝倉さんは少しだけ嬉しそうに頷いた。「それ、作家さんが聞いたら喜びます」「さっきも少し話しました。思った通りにならないものが、意外とよかったりするって」「彼女らしいですね」「料理も少し似てるなと思いました」「茄子の味噌炒めですか?」 私は驚いて朝倉さんを見た。「え」 朝倉さんは一瞬きょとんとして、それから困ったように笑った。「すみません。作家さんから聞きました。展示のあと、藤崎さんが茄子を作った話をしていたと」「そこまで伝わってるんですか」「たぶん、すごく嬉しかったんだと思います。器を使った話も、普通の日に使っている話も」 私は少し恥ずかしくなった。 茄子の味噌炒め。 少し焦げた夕飯。 それが工房まで届いている。 でも、不思議と嫌ではなかった。 笑われた感じではなく、ちゃんと生活の話として受け取ってもらえている気がしたから。「少し焦げました」「それも聞
中央のテーブルには、小さな器がいくつも並んでいた。 白い皿。 灰色がかった浅鉢。 青みのあるカップ。 少しだけ緑を含んだ深皿。 どれも似ているようで、少しずつ違う。 書店の展示で見た時は、器全体の雰囲気を眺めていた。 きれいだな。 生活に入ったら素敵だろうな。 そんなふうに、少し遠くから見ていた気がする。 でも今は違う。 この器には何を入れるだろう。 朝ならヨーグルトかもしれない。 夜なら煮物かもしれない。 この大きさなら、取り皿にも使えそうだ。 この深さなら、汁気のあるものも大丈夫そう。 そんなことを自然に考えている自分に気づいて、私は少し驚いた。 前なら、器を選ぶ時も「使いやすそう」「無難」「割れにくそう」くらいで済ませていた。 誰かに出しておかしくないか。 洗いやすいか。 しまいやすいか。 それはそれで大切だけれど、今の私はそこに少し別の問いを足している。 私は、これを使いたいか。 この器が食卓にあったら、少し嬉しいか。 その問いが、ちゃんと自分の中にある。◇◇◇◇ 私は淡い緑がかった小鉢を手に取った。 重さは軽すぎず、手の中に落ち着く。 縁は少しだけ揺れていて、完全な丸ではない。 青みの深皿とは違う。 でも、並べても喧嘩しなさそうだった。 これに何を入れるだろう。 ひじきの煮物。 おひたし。 冷奴でもいいかもしれない。 それから、少しだけ果物を入れてもよさそうだ。 考えているうちに、前に佐伯さんから言われたことを思い出した。 誰かに会えたから楽しいだけじゃない方がいい。 でも、会えたら嬉しいと思うのも悪くない。 今もそうだ。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。 中から聞こえる声は、穏やかだった。 誰かが笑っている。 器が触れ合う小さな音もする。 怖い場所ではない。 それは分かる。 でも、初めての場所の扉を一人で開ける時、胸はどうしても少し硬くなる。 私は案内の紙をもう一度確認した。 開催時間は合っている。 場所もここで間違いない。 販売会の日。 来てもいい日。 見てもいい日。 そう自分に言い聞かせ、扉に手をかけた。「失礼します」 小さく声を出して中へ入る。 最初に感じたのは、土の匂いだった。 強くはない。 湿った土と、木の棚と、少しだけお茶の香りが混ざったような匂い。 書店の紙とインクの匂いとは違う。 でも、不思議と落ち着く。 入口の近くに、受付代わりの小さな机があり、そこに作家さんが立っていた。「あ」 私に気づいた作家さんが、ぱっと表情を明るくした。「来てくださったんですね」 覚えていてくれた。 それだけで、緊張が少しほどける。「はい。案内を見て」「ありがとうございます。遠くなかったですか?」「大丈夫でした。少し迷うかと思いましたけど、看板があったので」「よかった。今日はゆっくり見ていってください」「はい」 私は小さく頭を下げた。◇◇◇◇ 工房の中は、思っていたより広くはなかった。 白い壁と木の床。 棚には器が並び、中央のテーブルにも皿や鉢が置かれている。 奥には、作業場らしい場所が少し見えた。 道具。 布をかけられた棚。 粘土を置く台のようなもの。 ここで器が作られているのだと思うと、胸が少し静かに鳴った。 書店の展
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。